浄覚寺の歴史です
無量山浄覚寺は約450年前に火災に遭い、過去帳等が焼失したため、その詳細な記録は残念ながら失われています。下記の記録は、当時の住職の覚え書きとして残された寺伝を基にしたものです。
ささやかな宗教活動の歴史ですが、公開します。
年代 | 住職 | 鳥越総代 | 寺伝 ・備考 |
平安末期 | 開基(初代) 圓融御坊 (山崎佐兵衛義元) | ◆平経盛の家臣 ・ 一の谷の決戦に参戦し敗退。出家して法然上人の弟子(親鸞聖人の相弟子)になる。 → 親鸞聖人とともに念仏停止事件に連座して佐渡に流される。→ その後、越後に上陸 → 蒲原方面から徐々に南下。→ 中之島町等に、浄覚寺に同行し定住したという家伝あり。内仏ご本尊裏に(浄覚寺門徒)書き込みあり。 | |
釈 行意 | ◆隣部落の 旧 三島郡三島町七日市に寺院建立(七日市に現在も「寺屋敷・大門」当の地名あり) | ||
◆450年前、火災に遭い、伽藍焼失。過去帳も焼ける。 | |||
450年前 | 釈 是吟 | ◆鳥越の現在地に本堂建立。(檀家数の多い鳥越の地に、焼け残った材料も使用し急遽本堂建立。) ◆本堂改修(九間の茅葺き本堂) | |
釈 教浄 | ◆聖徳太子中本山より下付。(高田本誓寺に財政支援し、礼として聖徳太子等身大の像を贈られる。譲り状も現存している) | ||
250年前 | |||
釈 教浄 | |||
明治37 | 17代 ・ 釈 法幢 | 高橋三左衛門 | |
明治38 | 18代 ・ 釈 徳城 | 原田佐九次 | ◆寺が荒れ、檀家が離れ、伽藍も荒れる。境内や庫裡の一部失われ、記録も失う。貧窮を極める。 |
昭和 7 | 19代 ・ 釈 憲寿 | 小林岩蔵 | ◆復興を志す。 大正14宗祖650回御縁遠忌 |
19代 ・ 釈 憲寿 | 小坂豊三郎 | ◆本堂改修計画 → 大東亜戦争勃発のため中止 梵鐘 ・仏具供出 住職発病・闘病18年 | |
昭和40 | 19代 ・ 釈 憲寿 | 小坂豊三郎 | ◆新潟地震 本堂・山門・庫裡の被害甚大。大破した山門のかやぶき屋根 |
昭和43 | 19代 ・ 釈 憲寿 | 小坂豊三郎 | ◆(仮)本堂再建 (内陣は旧来のまま) |
昭和41 | 20代 ・ 釈 寿浩 | 斉藤四一郎 | ◆山門屋根改修。梵鐘再鋳造(200貫) 山門改修工事 茅葺きの屋根を改修 |
20代 ・ 釈 寿浩 | 渡邉儀源治 | ◆庫裡増改築(昭和52) | |
20代 ・ 釈 寿浩 | 小坂徳次郎 | ◆仏具整備 | |
平成 3 | 21代 ・釈 考祥 | 小坂徳次郎 | ◆境内整備(塀工事・境内舗装) 門柱 |
21代 ・釈 考祥 | 渡邉儀一郎 | ◆山門改修(平成12)。 屋根を入母屋・銅板葺きに改修 ◆内陣整備 ◆本尊修理 | |
平成16 | 21代 ・釈 考祥 | 渡邉儀一郎 | ◆西墓地整理計画を実行中、中越地震被災本堂、庫裏が一部損壊 墓地の損害は西墓地の墓石を移転後のため、幸いにも損害軽微 |
平成17 | 21代 ・釈 考祥 | 渡邉儀一郎 | ◆西墓地整理工事完了・ ◆境内墓地のコンクリート舗装工事。10月完了 ◆聖徳太子の厨子塗り替え。 11月 |
平成18 | 渡邉儀一郎 | ◆親鸞上人の厨子塗り替え。 5月 | |
平成19 | 渡邉儀一郎 | ◆7月16日 中越沖地震被災 提灯掛け | |
平成20 | 渡邉儀一郎 | ◆登高座 | |
平成21 | 渡邉儀一郎 | ◆経キン・須弥壇 | |
平成22 | 渡邉儀一郎 | ◆御讃卓 | |
平成23 | 渡邉儀一郎 | ◆駕籠型厨子塗り替え | |
平成24 | 渡邉儀一郎 | ◆本堂物置床工事 ◆20代住職逝去 4月10日 ◆庫裏改修工事 4月~11月 | |
平成25 |